山名豊国、太平の世で何を思う。
闇夜に浮かぶ、二人の影、しかも二人。
殿、どうしてもゆかれまするか?
もう一方が、応える。
なあ、四郎、城や国は、そなたでも守れる、いや、そなたのほうが、わしよりも適しておろう。
じゃがな、妻、子は、わししか守れぬ。わしが守らねばならぬ。許せ。
この、殿、と呼ばれている男、山名豊国、家族のため、城も国も、そして名誉も捨てた、後の世に、夜逃大名等と言われる侍である。
しかし、当時の権力者たちはそうは見なかった。
自己の出世と野望のためには家族を利用し続けた秀吉も、己が生きるために、妻と息子を死に追いやった家康も、半ばこの豊国に興味を持ち、そして、心のどこかでは恐れ、自らの傍においた。
これは、そんな自らを百分之一殿、と言った、一人のサムライのおはなしである。
さて、話を位置から説明いたしませう。
山名豊国、天文十七年、但馬国の大名で但馬山名家の山名豊定の次男として生まれる。この年、西暦では1548年、日之本は、東に、北条・武田・今川・長尾らが、西に毛利・尼子・大友らが、領土拡大と抗争を続けていた、いわゆる乱世である。
(以下生い立ち)
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