参考 かよせつあやめ

 


古川博(72)「まぼろし出雲国庁」新人物往来社


p240「彼女の話は『島根県文化人名鑑』の中にまで記録されている。


  玄丹かよ(天保一三-大正七)は本名を錦織加代といい松江市雑賀町洞光寺下で生まれた。父、半兵衛は松江藩士であったが、盲となって浪人し名を玄丹と改めて針医になった。慶応四年、山陰鎮撫使西園寺公が西下したときには、かよは二十七歳の女盛りで酌婦をしていた。鎮撫使は出雲藩に対して四カ条の難題を示し、この催促のために川路副総督を松江に下した。一行の行動は威圧から乱暴となって市内の混乱は目もあてられぬありさま。藩は酒と女で慰撫につとめた。勝気なかよは自ら進んで川路に接して懐柔にあたったが、彼女は薩摩武士が刃先にさしたカマボコを平然と口で受けて、彼らのキモを冷やしたという。まもなく大橋家老の引責切腹と決まって川路の一行は米子へ引きあげることになったが、家老の恩顧をうけたかよはその助命に一身を捨てようと覚悟して米子へ同行した。そして首尾よく米子三の丸本陣にはいり込み、ついに西園寺に面談、赦免状を得た。彼女自ら馬にむち打って安来の割腹所へかけつけたのは家老切腹の寸前のことだったという。


 はたして事実がこの通りだったかどうかはともかくとして、こうしたエピソードが生まれ、伝えられることの中には、まぎれもなく出雲の人々の心が読みとれるのではないだろうか。」